【第5回】原点回帰(平安時代〜鎌倉時代)

 「寺は 壷坂、笠置、法輪。・・・」清少納言によって1000年頃に著された『枕草子』にも登場する笠置山。
東大寺との縁によって整備され有名になった笠置山ですが、1130年には礼拝堂の火災により弥勒磨崖仏の足が焼け、その後には彩色が施されるなど変化がありました。

 そんな変化も落ち着いたと思われる1193年、解脱房貞慶上人(げだつぼうじょうけい)が興福寺から笠置へ居を移されました。

 藤原氏の生まれで、祖父を藤原通憲(信西)父を藤原貞憲とする貞慶上人は、生まれた頃に祖父は保元の乱によって勢力を得たものの、平治の乱で自害、父も流配され、幼い頃に興福寺に入寺、11歳で出家されました。
 興福寺においてその才覚を表した解脱上人は「次世代の興福寺を代表する」と注目されていましたが、38歳にして興福寺から山寺であった笠置へと移られたのです。

貞慶上人は子供の頃に体験した「世の無常」に影響されたのか、春日明神・釈迦・弥勒・観音への信仰を大切にされる方で、当時の南都仏教界のお坊さんたちの行動に疑問を持ち、お釈迦さまや弥勒菩薩へのストイックな信仰心によって笠置山への転居を行われたのでした。
 とはいえ、仏教界から消え去られたわけではなく、笠置に安住されてからも京の都で広がる阿弥陀信仰・念仏に対しての疑問を呈し、各地の寺院へと赴くなど、勢力的に活動されました。

 釈迦信仰・弥勒信仰によって笠置へと移った貞慶上人でしたが「いまの私を救ってくださる観音さまの元へ」と最晩年は、木津川市 海住山寺へと移られたのです。

「釈迦に帰れ」
「われ行かん 行きて護らん般若台 釈迦の御法の あらんかぎりは」

 原点に忠実な貞慶上人によって、笠置山も隆盛期を迎えたのでした。

次回は「戦いの場となる」をお話しします。