【第3回】弥勒磨崖仏について(飛鳥時代)

 笠置寺の御本尊さまは「お姿の消えた弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)さま」。
現在では高さ15.7m・幅12・7mの巨石の表面に後背を残すのみですが、「天から降りてきた天人によって」664年(『帝王編年紀』説)・683年(『笠置寺縁起』説)に刻まれたと伝えられています。

 さて、仏教には「末法思想(まっぽうしそう)」という考えがあます。
これは、お釈迦さまによって説かれた教えは時の流れとともに忘れ去られ、やがて経典という形で教えが残るのみで、修行者も仏になれる人もいなくなるというものです。

1052年がその始まりとされ、この頃、京の都では来世への往生を願う阿弥陀信仰(南無阿弥陀仏)が広まり、これに対して南都(奈良)を中心とする寺院では、はるかな未来に弥勒菩薩という仏が人間世界に降臨され、私たちを救ってくださるという信仰が広まっていました。

 では「弥勒菩薩が降臨される場所はどこでしょう?」
 この疑問への答えが「巨石にお姿が刻まれた笠置に違いない」ということでした。
 弥勒菩薩さまは、お釈迦さまが亡くなった後、56億7千万年の未来に来迎し、お釈迦さまの教えを復興され、私たちを救ってくださる仏さまで、それまでは兜率天の内院(とそつてんのないいん)でお説法をされているそうです。
 なお、笠置山と兜率天については次回詳しくお話ししますが、笠置山千手窟は兜率天の内院への入口で、東大寺良弁和上の弟子、実忠和上は千手窟から兜率天の内院に至って、十一面観音悔過法を学び、笠置山 正月堂で修法され、これが東大寺修二会(お水取り)の最初。笠置山は「お水取り発祥の地」と伝えられるのです。

大和文華館『笠置曼荼羅』や奈良県宇陀市『大野磨崖仏』、木津川市当尾『辻の弥勒』などから推測されるのみとなった、弥勒菩薩のお姿は、なぜ消えてしまったのか?
実は、礼拝堂の数度の火災の炎によって表面は崩落したと伝えられています。
そして、最新の測量調査により、そのお姿は定説であった線彫から、浮彫によって描かれていたと判明しています。

次回は「お水取りは笠置から」をお話しします。