室町時代に著された『太平記』という歴史物語は、南北朝時代(1337年〜1392年)を舞台に、後醍醐天皇の御即位・鎌倉幕府の滅亡・建武の新政と、その崩壊を中心に描かれています。
1318年に御即位された後醍醐天皇は、天皇による政治を理想として鎌倉幕府から政治の実権を取り戻そうと考えました。
1324年に倒幕を画策(正中の変)された天皇でしたが、その計画は幕府の知るところとなり頓挫。1331年に再度の計画をたてる(元弘の変)も再び幕府の知るところとなり、天皇は京の御所から東大寺を頼り南都へ。そして鷲峰山金胎寺(じゅうぶさんこんたいじ)を経て笠置山へと移動。笠置山は三種の神器とともに天皇を迎え、旧暦8月末から9月末までの約一ヶ月、南朝の都となり幕府方との激しい戦乱が繰り広げられたのです。
天皇方は善戦するも多勢に無勢、戦いの末に全山消失。追っ手から逃れた天皇は井手町有王にて囚われの身となり、隠岐島に流罪となるのでした。
やがて隠岐島より逃げ出でた天皇は、都に戻り建武の新政を完成されたのですが、公家とのあつかいの違いに不満を募らせた武家の反乱により足元が崩れ、志半ばにして奈良県吉野の地へ移り、ここに南朝を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)の両朝が並び立つ時代(南北朝時代)となりましたが、その思いを果たすことはできず、1339年に崩御されたのでした。
この一連の変動期において笠置山は、山内寺院49ヶ寺にも及ぶという勢力によって天皇をお迎えし、三河国(愛知県豊田市)足助次郎重範(あすけじろうしげのり)公の活躍や、特に楠木正成(くすのきまさしげ)公との出会いなど、ドラマティックな物語の中心として描かれたのでした。
しかし、天皇をお迎えしたことが笠置山の全山消失、弥勒磨崖仏のお姿の焼亡を招き、また、後醍醐天皇・楠木正成公の人間像は、後世さまざまに評価され、特に大戦下においては国策に利用されるなど、笠置の地に大きな影響を与えたのです。
次回は「復興、そして未来へ」をお話しします。

