元弘の戦乱で壊滅的な被害を被った笠置山。
南朝の天皇を迎えた地ということもあり、その再興は順調には進まなかったものの、室町時代、1381年には本堂が再興。1398年には再度焼失。東大寺の貞盛和上が『笠置寺再興勧進状』を著し、復興に尽力され、この頃、笠置寺の歴史を記した『笠置寺縁起』も編纂された。
戦国時代には、1541年に細川晴元の山城守護代 木沢長政が笠置城に入城、大和国の筒井順昭が攻めるも撃退されたように、山城(やまじろ)として使われていたようです。
江戸時代には津藩(藤堂藩)の支配下になり、1648年には藤堂高次が十一面観音菩薩を本尊として祀る弥勒殿を再興。1704年には藤堂高睦が貞慶著『地蔵講式』と五胡鈴(ごこれい)を寄進。1849年には藤堂高猷が『大般若経六百巻』寄進するなど、藤堂藩による復興が行われたようですが、笠置山の状態は、1675年には山内に不動院・文殊院・多聞院・知足院・福寿院の5ヶ寺が存在したということです。
さまざまな手が差し伸べられ復興への道を歩んでいた笠置山ですが、1854年に発生した安政の地震の被害は甚大で、住職のいない無住寺院へと衰退の道を辿ったようです。
創建当時の華厳宗(東大寺)。貞慶和上の法相宗(興福寺)と南都寺院との本末関係にあった笠置山の寺院は、1873年、京都東山の総本山 智積院の末寺となり、1876年に大倉丈英が入山。真言宗智山派の寺院として、現在に法灯をつないでいるのです。
また観光地としては、1917年に登山道が整備され、1928年に笠置史跡保存会が発足。史跡の保存と観光客の誘致が行われ、1932年に国より「史跡及び名勝笠置山」に指定。1964に「京都府立笠置山自然公園」に指定。現在に至っています。
来たる2031年には、元弘戦役700年をむかえる笠置山。
どのような笠置山になっているでしょうか?
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